経 歴 | |
・氏名 | 白 川 恭 三 (シラカワ キョウゾウ) |
・生まれ | 1947年岡山県生まれ・O型・水瓶座 |
・身長・体重 | 174cm・55kg |
・家族 | 妻一人・子供一人 |
・仕事 | 整体療術師 |
・趣味 | ゴルフ・アロマセラピー・写真 |
・好きな食べ物 | 魚・野菜 |
・好きな言葉 | 感動・一所懸命・一期一会 |
・嫌いなこと | 嘘つき・不誠実 |
・夢 | 「ピンピンころりん」と生涯を終える事 |
・資格 | 1999年5月 健友館 整体師養成所 卒業 |
・生い立ち | 幼児のころは「もらい乳」と言って母親以外からおっぱいを飲ませてもらって育ったらしい。 3歳のころ、近所の用水池で釣りの真似事をしていて池に落ち、一度沈んで浮かび上がったところを近所の人に助けられた。 その時、気を取り戻して行った言葉が「ワイ、チンドッタン!(僕死んでました)」と言ったと云う逸話があったとか・・・ 保育園のころは、給食のおばちゃんに余ったパンの耳を貰っておやつ代わりにして食べていたのを記憶している。 小学校に入ったら、近所のお百姓さんや果樹園(桃・蒲萄・柿)の手伝いをして野菜や果物を手に入れていた。 い草の田植えは氷を割りながら、刈り入れは夏休みが始まるころの猛暑、硫黄で染めて乾燥させるのに田の畔に乾し、夕立が来ると急いで取り込む!!! 今では農家の子供でも体験したことのないような仕事を全て体験させて貰った。 その頃大人になってからのしたいことは、1=百姓・2=漁師だった! 何故なら「ひもじい思い」をしなくて済むから・・・ 小学校の高学年になると、川や池でドジョウやウナギやシジミを捕って母が行商をしていた国立療養所へ売りに行く商品として提供していた。 そのころは栄養失調による結核患者が多く、飛ぶように売れていた。 あっ、裏山の妙見寺(漢字は定かでない)と云うお寺さん周辺の松林で「マツタケ」や「ヌメタケ」も採取していた。 かまどの薪に枯れ枝や松葉も集めた記憶がある。 遊びは全てその辺りで、ガキども4〜5人が集まっては走り回っていた。勉強をした記憶は皆無である! 中学への入学の時、民生保護(今の生活保護)を受けていた私には、他の同級生と違って無料提供のため教科書を数日後でないと貰えなかった。 悔しくて悔しくて滅多に涙を見せた事がないのに隠れて泣いてしまった。 今でも思い出すと涙が出る・・・ クラブ活動は水泳部。だが、プールが無いため名前だけで、結局は体操部に所属した。先輩に竹ぽうきの枝で脹脛を「ピシッ」と叩かれ、青筋がついたのを思い出す。群大会に出場した記憶がある。 短距離はダメだったが学年の校内マラソンは常にベストテンにいた! そのころは、畑で野菜の栽培、大工仕事等も授業にあった。 学校の肥え(人糞)の汲み取りもやった! 2年生の時から本&文房具屋さんで、主に自転車での配達のアルバイトを始める。 初めての夏休み40日間のバイト料3000円♪ 近視になっていたので眼鏡を2000円で買い、1000円は母に渡した。 中学でも勉強をした記憶はない・・・ 卒業後、担任の先生の言われるがまま集団就職で東京のベアリングの研磨会社へ。 上京する列車の中で富士山を見た時、「うわーでーれーぼっけー(凄い)」と思わず岡山弁で大声を出し、周りの乗客に笑われたのも思い出す。 東京都大田区調布嶺町、中小企業の工場が立ち並ぶ、多摩川の対岸は川崎市の工業地帯!ジャイアンツ2軍のグランドも近かった。 NSK(日本精工)と云う大手の下請けをしていた、従業員15名程の会社だった。 初任給5000円位だったか・・・半分は実家へ仕送りした。 月に1度の映画と外食が楽しみだった♪ 研磨機のベルトに指を挟まれ、右手薬指の爪半分を剥がし、病院で爪と皮膚の間に麻酔注射をされ、痛さで気を失いそうになったこと。 初めてのスケートリンクでスッテンコロリン!頭を打ち、暫らく気を失ったこと。 吉永小百合さん宅の近所をウロツイタこと♪ それなりの思い出は作れた!(^^)! 1年半勤め、東京オリンピックが開催される年の9月に退職して帰郷。 退職の理由は定かでないが、視力の低下(近視、斜視、乱視が進行)と、今の北京のような大気汚染に耐えられなかった様な気がする。 東京〜大阪間の新幹線は開通していたが、東海道本線の急行で帰郷した。 続く・・・ |